伝説の投機家 ジェシー リバモアの経歴
1日で400,000,000,000円を相場で稼いだ人です。4千億円です。
個人投機家でこれは凄すぎますね。
リバモアと言えば、日本で生きた伝説となっている平成の相場師BNFは、彼の書いた本を読んだそうですよ。その本はこちら。
でも、大金持ちになって果たして彼は幸せだったかというとどうでしょうか?
何度かの破産と何度かの離婚を経験しています。
破産も離婚もしたからって、不幸せとは思いませんが、ホテルのクローゼットの中で自殺して終わらせた人生でした。
鉄火場で壮絶な運の切り張りをして、運を使い果たせしてしまったのかもしれません。
麻雀放浪記の作者阿佐田哲也が、本名の色川武大で書いた本に「うらおもて人生禄」という面白い本がありますが、「運には総量がある」なんてことを彼は主張しています。
本当にそんなこともあるかもと思ったりもします。
ではリバモアの生い立ちについて簡単に見ていきましょう。
1877年にマサセッチュー州の農家に生まれる
3人兄弟の末っ子です。親の職業は農業です。
3歳までに読み書きをし、5歳のときには経済新聞を読んでいたとのことです。
高学歴ではありませんが、地頭は相当よさそうです。
だいたいどの世界でも抜きん出ている人は、運や努力があってそこまで上がれたとは思いますが、持って生まれた頭脳がハイクラスですよね。偏差値や受験的なものでの肩書がなかったとしても。
田中角栄さんは中卒で総理大臣になりましたが、記憶力は相当よかったようです。BNFだってそうですね。私と同じ大学なんだから、高が知れてそうですが、チャートや値動きの記憶の量に関しては、東大クラスのレベルでしたからね。
伝説が後から作らせた可能性もありそうですが、リバモアは神童だったとのことです。
14歳で働き始める
父親に家の仕事を手伝えということで、学校を14歳で退学させられたのでした。
しかし、リバモアは反抗して家出するのでした。
反抗期の時の私が、親の気をひきたくてしたちっちゃな日帰りの家出とは違いました。
リバモアは家出して帰ってはこないで、ボストンにある株仲買店で働き始めました。
使いっパシリの小僧でしょうね。
週5ドルで、ボードボーイとしての仕事をしていたそうです。
この時代は、ネット証券もなければ、電子掲示板もないので、黒板にチョークで情報を書いていたのですが、その書くことが彼の主な仕事でした。
ところで、リバモアの本を読むと、テープを読むという件がありますが、昔は株価情報をリアルタイムで得られる術が、ティッカーテープという紙に印字されたティッカーシンボルによる情報だったわけですね。
15歳で初めて株を買う
初めて買ったのはバケットショップで5ドルの株で、3.12ドルの利益を出したと本には書かれています。
バケットショップというのは、違法の株店です。ネット社会の今とは違いますのでね。想像ですが、そういった小さな賭博場に近いショップが軒を連ねていたのではないでしょうか。
数週間でボードボーイの給料を超える稼ぎを得るようになりました。
16歳で仕事を辞めると、ボストンのバケットショップでトレーダーとしてのキャリアをスタートさせました。
パチプロが店から追い出されるように、リバモアも勝ちすぎてバケットショップから追い出されることがしばしばありました。
彼はあごひげを付けて変装して潜り込んだこともありました。
結局はほとんどの店から出禁をくらって稼げなくなってしまいます。
麻雀放浪記の坊や哲みたいですね~。

若き日のジェシー・リバモアはBNF風のイケメンだ
リバモア、ニューヨークへ行く
ボストンで大きく稼げなくなったリバモアは、ニューヨークに行くことを決心します。
1990年、23歳のときのことです。
彼は3回結婚していますが、この年が初婚です。
ここでプライベートな話題に触れておきますが、出会って直ぐに結ばれたこの結婚生活は17年も続きました。
もっとも、金の切れ目が縁の切れ目で、破産したときに別居を開始していますので、実質的には6年くらいの長さでしょうか。
40歳のときに二度目の結婚をします。
このときのリバモアは既に大金持ちなので、女には困っていなかったようです。故に結婚生活は不安定だったかもしれませんが。
20代前半の妻との間には2人の子供ができました。
金には困らないけれども、外に何人も女を作っている夫との夫婦生活は幸せなのかどうか?
妻はアル中になってしまいますし、金に塗れた泥沼の中で結婚生活は破綻します。この若い妻のことを思い浮かべたときに、カジノ という映画に出てくるシャロンストーンを連想させられました。
なんだかんだで10年以上続きました。かなりの長期トレードをしたと思います。
56歳のときに38歳の歌手と再婚します。
この女は5回目の結婚で、2人の元夫は自殺しています。
こういう女との交渉は、2時間休憩コースのデイトレか、一泊二日のスイングトレードでよかったのではなかったでしょうかね。と、赤の他人は思うのですが・・・。
さて、話はリバモアのトレーダーとしての経歴に戻ります。
20歳のときに最初の破産をしています。
普通ですよ。これが。バケットショップでない合法の株式トレードを始めて半年くらいで退場です。
しかし、失敗は成功の母ですからね。
1901年にノーザンパシフィック鉄道株で、10,000ドルを5日間で50,000ドルまで増やしたそうです。現在の貨幣価値に換算すると5万ドルは20億円だとか。
カミさんがあげまんだったのでしょうね。
でも、それだけではないでしょう。やはり、一度破産して、そこで学んだことを活かしたからチャンスをものにできたのではないかなと。
強運の持ち主、大地震の直前に鉄道株をショート
サンフランシスコ地震の直前にユニオンパシフィック鉄道の株をショートして、短期に25万ドルも稼いだそうです。
ナマズかよって話ですね。
ぐんぐん上がっている時点での逆張りだったようです。
1906年、2度目の破産は大きかった
2度目の破産は、大きく稼いだ後のことですからね。失った金額の大きさが途方もないです。
ショートして、読みは当たっていたのですが、早仕掛けすぎて、トレンドが明確になる前の上げで追証。そして、退場。
このピンチで、奥さんの高額宝石類を質に入れて種銭を作ろうとして断られたのががきっかけで、別居が始まりました。
麻雀放浪記のドサ健は自分のオンナのまゆみを質に入れて種銭を作りましたからね。
あげまんだったのかもしれませんが、まゆみと比べると愛がなさすぎで、別れて正解だったと思います。
破産とは言え、大抵の個人投資家の種銭以上の金は手元に残っていたのではないかとも思います。
なんせ、翌年の1907年恐慌でショートをポジってボロ儲けしていますから。
もっとも、このクラスになると、大金を託して運用を任せたいという話がたくさん舞い込んでくるのかもしれませんが。
1907年恐慌でショート、1日で100万ドルを稼ぐ
リバモアは1907年の恐慌で全力売りで大儲けしました。
1日で200億円程度の利益を出しています。
この時期、JPモルガンが、リバモアにショートを手仕舞うように要請していて、リバモアもそれに応じています。
このときのリバモアの買い戻しは、市場の崩壊を食い止める一助にもなり。英雄視されたそうです。
モルガンは証券取引所の理事長に泣きつかれ、1,000万ドルの貸付を約束しました。
モルガンにとっても大きな利益を得るチャンスですが、このまま市場が崩壊したら巨額の貸倒損失ですからね。
愛国心を煽ってリバモアを説得しましたが、モルガン自身の為でもあるでしょう。
幾ら稼ぐ力があっても、稼ぐ場所が完全に崩壊してしまったら、能力の活かしようがないので、ほどほどにわざと負けておくのは賢明な判断だったと思います。
これまた麻雀放浪記の出目徳みたいですね。
坊や哲は出目徳に教わりました。カモの連中を追い詰め過ぎずにまた戻ってくる余力を残させ、雀荘からも出禁にならないようにと、わざと負ける必要性を。
この1年で、リバモアは資産ゼロから300万ドルまで増やし、世界の大富豪になりました。
1908年、大富豪から一転再び急落下
他人の勧めで株を買ったら、直ぐに下がった。
なんてことは個人投資家のあるあるでしょうが、リバモアは他人の勧めで商品先物に手を出して3度目の破産のきっかけを作りました。
リバモアは綿花の先物のロングポジションで大損しますが、彼に買い推奨しておいて、推奨していた本人は密かに売り抜けていたということもありました。
みなさんも、煽りに気を付けてください。
今も昔も、大金が集まるところには魑魅魍魎が潜むものです。
ヤフーファイナンス掲示板やTwitterでも、時々似たようなことをしているワルがいますからね。
知名度の高いマスコミにだって、煽り記事を書く記者はいますからね。
それでもなんとか踏ん張って、トレードを続けていたリバモアですが1915年に破産申告して受理されています。
しかし、ここで終わらないのが伝説の投機家たる所以です。
心機一転でトレードに立ち向かったリバモアは2年で完済しています。
破産だったら、借金免除だと思うのですが、金主に筋を通したということかなと思いました。
その後も小麦やトウモロコシの先物に手を出していますが、利益も出しています。
世界恐慌で超絶稼ぐ
1929年の世界恐慌のときもショートを持っていました。
勿論、運だけではないですが、運もいいと思わざるを得ません。地震の前日にショートをポジった話もありますし。
そして、得意の売り増しで、全力売りへとロットを増やしていきました。
ロングを一掃した後買い戻せば、今度はショートカバーで上昇するのです。
反転急上昇の中でドテン買いしていたリバモアは、1日で4,000億円以上の利益出しています。
しかし、このころ彼は幸せだったかという、とどうでしょうかね?
アル中の妻と結婚生活は破綻していて、1932年に離婚していますが、泥沼だったみたいですよ。和解金に1,000万ドル払っただとか、離婚成立前に恋人と同居していたような女には1円も払いたくはないですからね。
別れた後の話ですが、この女との間には2人の子供がいましたが、酔った母親が息子に発砲しています。
一命は取り留めていますが、この事件がリバモアを苦しめたようです。
不調の波にのまれたリバモアは、1934年に破産申請し、同年シカゴ商品取引所のメンバーの権利をはく奪されています。
自殺、 享年63
莫大な資産を相場で作ったジェシー・リバモアでしたが、ニューヨークにあるシェリーネザーランドホテルのクローゼットの中で、拳銃自殺をしました。
1940年11月28日のことです。
晩年はうつ病に苦しんでいたそうです。
妻宛に短い遺書を残していました。
駆け足でジェシー・リバモアの生涯を追ってきましたが、相場師としての強さは計り知れないものがあります。
巨大な失敗と成功を繰り返してきたリバモアの言うことには、説得力があります。
彼が残した名言をまとめたので、よかったら読んでみてください。

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この動画も面白かったので、リンクを貼っておきます。
英語が得意でなくてもここまで読んだ内容が頭に入っていれば、想像で映像を楽しめるかと思いますので。